昭和50年12月27日 朝の御理解
御理解 第36節
「日本国中のあらゆる神を、皆信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯と云うたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」
皆さんの信心を今私が思わして頂いたら、まあ今朝の御祈念にでもお参りになっておられる皆さんの場合、恐らくは金光様の御信心からこういう良い信心がある。こういうおかげを受けられる神様が御座る。仏様が御座ると言うても、恐らくそれに心移りをする心変わりをする様な方達は先ず無かろうとこう思います、どうでしょうか。とっても御利益を受けられる神様や仏様やお導きを受けて変わられませんかと、金光様よりよかですよと、恐らくそれに依って心変わりなさる方はまず無かろうと思いますがね。
只私は金光様一心だ、一本だと云うだけでは私はないと思いますね。おかげの受けられる、草木でも芯と言うたら一つじゃと、神信心もこの一心を出すと、とこれは例えば教えを受ける。その教えを私は愈々自分の血に肉にするところに一心が置かれなければいけない。またそれを乱さない、それを頂き抜くという一心。頂き抜くというたら、頂き抜くと云うその一心が見えた時にすぐにおかげが受けられるのです。
お互いの場合は一心の様であってもそれが一心でないからすぐにおかげを受けられると言うすぐのおかげにつながらないと思います。だから皆さんが一心を立てる、一心不乱と言う事を申しますがもう乱れない、決してこの氏子の一心は本当なものだと神様がおみとめなさるほどしの、一心が私は立ったときに初めて、すぐにおかげが受けられると言う事になると思います。私は教祖様が何時も皆さんに聞いて頂く様にうそを教えておられるはずはないと思うです。
それでもあなた、私は金光様一心ですけれども、すぐにおかげはすこしも受けられないと言う人があるかも知れません。ただもう色々他にも話を聞くですけど、もう金光様一心もう合楽一本、それでもならすぐにおかげが受けられると仰るけどすぐにはおかげは受けられない。だからそういう一心ではないと言う事が分かりますですよね。すぐにおかげが受けられると言う一心はです、もう迷わないどんな事があっても貫く。例えば日参をすると決めたら日参をする。もうこの人の言う一心は間違い。
例えば人間は難儀な時やら困った時やらはです、それこそ笑い話じゃないけれども、嫁御さんが難産で苦しんどる。うんうん言うて苦しんどるから嫁御だけにそう苦しませちゃならんと、言うので神仏を拝む事になり、どうぞいっちょ生まれます様にと言ってお願いをする。その代わり生まれましたならばそれこそ、千の灯籠もお供えする様にいうて拝みよる。嫁御さんが苦しい中から、あんたそげなこと言うて神様にお願いしているけれども、とてもその様な事が出来るもんですかとと言うたち。
そしたら親父が言うたち、今神様をだましている所だから早く産めと言った、笑い話の様だけれどその様に極端でないにしてもそういう人が多いです。私も沢山何十年の間お取次をさして頂いとるけど、そういうお取次は随分聞かせて頂いたです。もうそれこそ一月と続かん人があるです。例えば日参をするとか教えを頂いてこれを守るとか、と言うてお届けをする人が沢山あるけれども、それを本当に頂き抜くとい人は少ないです。それを頂き抜くという腹が見えた時です、その一心が立った時です。
すぐにおかげが受けられるのは。これならもう絶対ですやっぱり。だからすぐにおかげが受けられると云う程しの一心ですから、そう簡単な事じゃないです。なら私達がです朝の御祈念なら朝の御祈念にそれこそどんなにきつかっても、這うてでも出て来るが、なら四時なら四時の御祈念にそれこそ一分だって時間を切らす様な事はしませんと、心に一心を立たらですそれを貫くということです。
だから私はおかげを頂くと思うです。一事二事じゃありません。私がつらぬいて居ると言う事は、例えば黙っておさめると言った様な事でもです、もう言わんと決めたら絶対言わんです私は。そこからね昨日たとえば頂きました様な御理解「白という色の深さや陶の秋」本当に神様ちゃ恐れ入ってしまうなと、と言う様なおかげが頂かれるのです。本当に神様の深遠なお計らい、深さ広さにもただただ恐れ入って仕舞うというおかげを私はいただいておるわけです。
例えていうなら、もう昔頂いた、楽はせんぞと楽はさせて頂けと仰るのだから、もう自分から求めて楽はせんと決めて居る訳です。今日はいっちょ暇だから温泉なと行こうかと、今日はどこどこによか芝居が来ているので見に行こうかと、私は絶対しないでしょうがさせて頂く時だけです。親先生どうぞというて招待券を下さって、これまで持ってきて下さってお芝居に行くのであって温泉でもそうです。もう自分から求めて楽はせんと決めたらもう楽はせん。その一心を定めるから私はおかげを頂いとるのです。
私は今日改めてです、すぐにおかげが受けられると云う様な、誰でも一心じゃが、と例えばここに言われている様な、日本国中の、あらゆる神を信心すると云う様な表現をして居られますから、もう外の神様は拝まん、外の仏教は拝まん。もう拝む拝まんは別として、頼むというたらこの方一心、此方金光大神だけだと、腹を決めておる人は沢山ありましょう。なら皆さんの場合だって皆んなそうだろうと思います。
もう何々教が良いですよといわれて、なら私も一度連れて参って呉れと、いう人はまあ先ずはなかろうと思うです。だからそういう程度の一心では、すぐにおかげを受けられると言う事ではないです。一心とはもう不乱、乱れないと言う事です。皆さんそういう一心を立て貫く所にです、矢張り辛抱力を作らにゃいかんです。なら皆さん合楽全体、もうそれこそ合楽の御信者さん方が熊本、宮崎、佐世保、長崎と言う様な遠方から参って来られる方達でも、今皆一通り所謂心行、大祓信行に取り組んであります。
昨日も宮崎のこの前お参りした二、三回もしたでしょうか手紙が参りました、元大阪に居られた時に天王寺教会に御縁を頂いてお参りをした。それで宮崎に来られたから宮崎で近所の教会にもまたお参りをされた。そして色々な問題があっておかげが受けられん。そして合楽の話を聞いて合楽にお参りをして来た。余りに有難いおかげを頂いたから、その事を天王寺教会の一番初めに御神縁を頂いた所の先生に手紙を出した。
そしたら天王寺の先生から手紙がきた。〇〇さんあんたが合楽にお参りをして居ると言う事を聞いて私は大変悲しかったと手紙が来た。あんたの一心が間違ってはいないか、どう言う訳でそんな遠い合楽になどお参りするかと。私はあんたのその手紙を見て、いくらおかげを頂いたというても、悲しいと私はその様な事は教えていないよという意味の切々たる手紙が来た。そこでまた次にお参りさせて頂いたときに、おかげの泉とそれから合楽で頂く教えを書いてまた手紙を出さして頂いた。
そしたら今度は是非自分も一偏連れて参って呉れと、という手紙がまた来ました。だから自分の例えばこれの方が本当だと分かった時にはです、自分がこう一心を立てた時です。私は今のお道の信者教師に言える事ですけど、もう本当でもない事に一心を貫きよる人がある様に思いますね。だから信心はもうそこからギッスリ動かんです。特に先生方に多いです。程度の低い所を本当の事と思うてです、例えていうとですよ分かり易くいうなら、もう少しより本当の事があるにも拘らず。
そこにその一心を動かそうとしない。だから間違っている所に一心を立て貫いてもやっぱり駄目ですね。より本当と分からせて頂いたら、より本当の所にその一心を置き替えられるそういう一心。愈々より本当な事を願い、より本当の事が求めて行けれる事に一心を立てなければいけません。だからここでは私自身が神様から頂いて私が実際に実行しておかげを受けて間違いのない所を、皆さんに聞いて頂くから皆さんの何処でも良かですね、皆さんで出来るだけの所をです、一つ頂いてです。
例えば黙って治めると言う事でもです、本気で黙って治めると言う事に一心を貫いたら、おかげが受けられる。又その一心が見えたらすぐにおかげが頂けれるのです。そうしませんとね、本当に神様の広大無辺というか広さとか深さとか、それこそ昨日の御理解で云うならば白という色の深さや陶の秋と言う様なです、その深い所に触れて行かれませんです。一心を貫きませんと。
昨日三時半からの朝の御理解の研修を皆でさして頂きます時に、昨日の朝の御理解を皆さんが色々に頂いております。それを一言でまとめるならというて靜雲さんの「えんま」という惟は俳句集です。その中に私がどんなに探しても探し出さんのですが、句の中に一つあったのがこういう意味の句であったのです。あの「トクサ」という植物がありましょうが、こう乾かして研くのにする「トクサ」と言いますね。私の部屋の襖が家内の方のやすんでおる部屋がトクサ模様です。
それから私の方がやすませて頂く方が菊の花が描いてある襖です。これは誰がどうも言わんとに神様ちゃ不思議な事ね、お前はままあださっさと研かにゃならん、俺はいつも菊の花のような心開いとるから神様がちゃんとこうして下さっとるねというてから、家内はあれを見るたびに研かにゃと思いよるに違いありません。トクサの模様じゃもん、そのトクサです。そのトクサの花をね、こう曲がったように耳掻きの様になっているのです。あれでね耳を掻いているお坊さんの姿を描いとる句でした。
それを私は一寸忘れましたけどね。トクサを耳掻き代わりに使って居るお坊さんの情景を句にしてあるのでした。それを頂くのです。例えばです是で研かなければならないと言う事は分かっているに拘らず、それをいい加減にしておる事です。自分の気持ちのよい耳掻き代わりに使って居ると言う事です。例えば一心を立ててです、例えば昼横寝等する様な事はしません。と一心を立てて決めて居るとしましょうか、だからそれで本当に良い修行を出来る良い心研きが出来ると、と神様もお思いになさるでしょう。
所がそういうなら神様への約束は忘れとるのか良い加減にするのか矢張りそれで楽寝をしておる、どう例えばこうするなら、ちょうどトクサの花で耳を掻いておる坊さんの姿の様な物じゃないでしょうか。そういうことでは昨日頂いた信心のいわゆる白の深さ、神様の心の深さ広さやら体験する事も頂く事も出来ないそれ位の事では、だからその事を私はこの句集の中からどの辺じゃっただろうかと一生懸命探しよったら、又一つここに耳掻きの句があったんです。
「耳掻きのありて かりけり 日向ぼこ」耳掻きのありて借りけりひなたぼこ。私が皆さんにいうのは是なんです。耳を掻いちゃでけん、楽をしちゃでけんというのじゃない、楽をしてよい時にはちゃんとそこには耳掻きがそこにあると、しかも日向ぼっこさせて頂きながら、それこそ目を細めてもう気持ちの良うしてから、こう耳掻いて貰いよる姿を思うてご覧なさい。それに何時でもではないさぁ耳を掻いてくれ」というた様な事をです私が、私は昨日思いましたけど。
本当に合楽の信心を例えば昨日から頂いとる御理解のこの三つの俳句の中に頂いたらもう合楽の信心の全てというて良いですよ。いいですか。「白という 色の深さや 陶の秋」これが昨日の御理解でしたよ。そのためには研かなければいけない材料で、自分が楽をしようとする様なね、いわばトクサの花で耳掻く様な事では、その深さは分からんというのです。というて、信心はそんなに厳しい事ばかりじゃないと、ああしたらいかん、こうしちゃならんと言う事じゃない。
神様が許される、神様がして下さる、神様が与えて下さる楽ならば有り難く頂かせて頂け。今のこの句がそうです。そこに耳掻きが置いてある。ちゃんと、しかもお縁の日向ぼっこが出来れる様なところで楽をさして貰う。素晴らしいでしょうが。この三つの句を皆さんがようと覚えておかれたらです、それを実行されたらです、又はそれに一心を貫かれたらです、おかげが受けられるだけじゃありません。すぐにおかげが受けられるだけじゃありませんです。
それを積んで行くなら必ずお徳を受けるでしょう。いよいよ白の深さや、神様の御心の深さ、広さが分かるでしょう。本当に神様がこんなにまでしてらくをさせて下さると思うたら有り難うして勿体のうしてと言う事になるのです。私共が毎日久富先生やら繁雄さんやら足を揉んで下さいます。あの人達に揉ませようとか、揉んでくれでなくて、しかも私がここを退らせて頂いてそして一服さして頂く時に、いうならば揉ませて下さいと言う様な働きなんです。
是なんかは言うならば日向ぼっこしながら耳を掻いとる様なもんじゃないでしょうか。所がさぁ今日はマッサージ師を呼んで呉れと、さあ肩揉み呼んでくれと、さあ繁雄さんに電話掛けて来て貰ってくれと是は私は絶対言いもせん、思いもしません。もうそうして神様が下さる楽を頂く時にです、神様のその深さ広さをしみじみ感じながら足揉んで貰うのです。恐れ入って仕舞うです。いうならば楽はせんぞと楽はさせて頂けというこの一つだけでもです、一心を貫かせて頂いたらです。
それがもう本当にこの氏子はもう間違いがない。この一心を立て貫くと言う事が分かったときに、すぐにおかげが受けられるのです。一心不乱如何にも厳しいごとあるけどそうじゃないでしょうが。「耳掻きのありて かりけり 日向ぼこ」惟は楽はさせて頂けという神様が許される、神様が本当にあらゆる手を使うて楽はさせにゃおかんと言う様な働きが起きて来るときにです。
唯ただ不思議で不思議でたまらん、そこで神様の御用にならばそれこそ命がけで、又打ち込もうと言う、いうならば心も起きて来る訳です。今日は神信心もこの一心を出すとすぐにおかげを受けられると言う事を聞いて頂いたんです。だからそのならすぐにおかげが受けられる一心とはどう言う事かと言う事を又聞いて頂いたんです。そして例えばこの三つの俳句の例を聞いて頂いたのはです、そういう一心を貫くとこういうおかげになるという一つの例話です。
これだけはというものをです、一つ貫くという一心を出す。三代金光様があるお正月のお言葉の中に、「一心の真」という事を仰っとられます。所謂本当の一心と言う事でしょう。私は今日そういう風に一心の真と言う事を感じます。本当の一心。真の一心。それは乱れない、一心不乱、乱れない一心だと思います。その乱れない一心を出す時にです、すぐにおかげが受けられるというおかげに継ながって来る、それが頂抜かせて頂く所に御徳も又受けられる事になります。
惟はもう本当にですね、例えば黙って治めると言う様な事でもです、本当に黙って治めるということの素晴らしさが分かる時に初めて、陶の深さやと言う事になるのです。言うて分らせた所にはもう浅いおかげしかないです。心を神様に一心に向けて、もう言わんと立てたら言わんと心に一心を立ててです、黙って治める事の素晴らしさと言う事を体験する。そこに愈々神様の深い広いお働きを感じる事が出来ます。
トクサの花で耳掻きをする様な事は決して致しませんと、言う様な信心。そして初めて許されてそこに耳掻きはある、しかもそこの場所は日向ぼっこの出来れる様な場所もある。そこに合掌して頂くという素晴らしいおかげの世界がある。愈々「白という色の深さや陶の秋」である。愈々白の深さが白の広さが白の味わいというのが愈々分かって来る。愈々神様のそれこそ迷いの起こらない、どういう例えば信心の誘惑を受けてもです、それでふっと迷う事のないような所謂確固たる信心が出来るようになるのです。
一心を貫くと言う事を、今日は一心を出すと言う事は、ただ頼むのは金光様以外にはないと言う様な意味だけではなくて、神様から頂いたみ教えを頂いた、その教えを守り抜くと言う事に一心を出し、そしてその一心がこの氏子の一心はもう間違わんと、神様が見極めなさった時に、確かにすぐに受けられるという、おかげが頂けると言う事を聞いて頂きましたですね。
どうぞ。